昭和46年01月24日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の 心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
家内中勢を揃えたということは、例えば合楽の教会の全体の信奉者が、一丸となってと言ったようなことも言えますよね。けれどもただ皆がね、ただそのことを祈っております、拝んでおりますと言うだけではいけんのです。それではただ力になるもではない。何か一つのものに、ただこうやってしがみついておるとだけであっては、返って邪魔になるぐらいなもの。それぞれの力がそこに出し合わされなければいけん。
大きな物を一つ抱える。さあ五十人で出来んとこを百人で持とうと。というのと只こうやってしがみついておるだけでは、返って邪魔になる位な事。ですから皆がそれを持とうという気にならなければならん。例えばここで教えておられます様に、家族中ということもそれが言える。同時にどうぞその身から打ち込んでの真の信心。所謂真の信心が求められておるわけです。同時にその身から打ち込んでのと言う事。
その気になってと言う事。しかもその気になってというのが、真の信心を持ってでなからにゃいけん。この二十四節は、けれども大勢で一つのことを祈ると、願うと言った様な事の程度に、ここの所だけを頂いておった様な気がしますですね。持ち上がらぬ石でもと。そりゃまあ一人二人じゃとても持てないと言う様なね、それが掛け声を一度に、しかも力を揃えて一二の三で持ち上げると言う事。
バラバラではいけんと言う事。と言う事をただ願っておれば良いと言った様な事ではないと。大体そんなようなふうに頂いておりましたですね。一つのことを皆で願う。例えば今ご本部で、ご造営が始められております。沢山の信奉者の真、真心の結集によってそれが成就することで御座いますけれどもね。それを皆がその願っております祈っておりますだけではいけないのです。それはそれぞれたけだけしそうにです。
その人なりの力が結集されなければいけません。力が出されなければ。しかもそれが所謂かけ声を揃えて、一二の三と言う様にですそれで初めて。ただ皆でその事を拝みよらいいと言う様な事ではない。私はそれを一番私共が体験いたしましたのは、何と言うてもここの三男の幹三郎が、病院に入院致しました時に一月間、皆さんがそれこそ一心の真を現しての勢信心をなさった事ですね。私はこの時ほど力強い、一つの祈りというものが、この様なものかと言う事を感じた事は御座いませんでした。
ただお付き合いに、一ぺんお願いをしたと言った様なものじゃなくて、それを一月間言わば、入院から退院までを一つの時期として、まあ皆さんが一生懸命に拝まれたと。お願いをされたと。言うなら日々ですその事に取り組んで、皆さんが一心の真を捧げられたことです。しかもその一心の真を捧げると言う事がです、お互いの日常生活においてですら、そのことを祈り願われたと言う事です。
多かれ少なかれ、皆そういう信心を現されたことです。そこの田中さんのお届けを聞いて、皆が感動いたしましたし、また同じような意味においてのご信心が、皆さんやっぱ出来られた。ちょうど取り入れの真っ最中でしたが、自分の所がもう取り入れが早く片付いたから、近所にまだ遅れておられるところに手伝いに行こうとこう言う。どこにでもまあ手伝いに行こうとこう言う。
その事がですね、その事が幹三郎さんの言うならば、全快のおかげを頂かれる事の為の力になるならばと思うたらね、思わず力が出たと。要するにお手伝いに行かれるという、その事が。お家でお炊事をなさる。これは主婦の人が、炊事をするといったようなことは、まあ当たり前の事だけれども、その茶碗一つ一つ洗わせて頂く中にもです。実意を込めさせて頂く事が、これが幹三郎さんの、全快のおかげを頂かれる事の為の御用になるならばと思うて、実意の限りを尽くさせて頂いた。
その実意を尽くさせて頂いた後の喜びというものは、これは所謂田中さんだけしか味わう事の出来ない喜びに浸らせて頂いたとこう言うておられる。そういう意味においての信心が、あれだけ沢山の人達。毎日やっぱり、百四五十名の人のお届けがありましたからね。一心の真を捧げてお取次ぎを願われる。しかも一心の真をもって日常生活の上にまで、その事の為の修行として頂いておられる。
その答えにおいてはです、その事が神様がお喜びくださる印だと思われるばかりにです。自分の心に、かつて味おうたことのない喜びが湧いてきたと言う。私はそう言う様なですね、そう言う様な願いがね、かけられての勢信心でなからにゃいかん。ただ皆で拝みよりゃよか、言わば烏合の集の願いであっては何もなりません。私は今日ここではっきりその事を思うですね。一心の真を捧げてどうぞと願う。
しかも一心の真を捧げての願いがです、御神前に向かって願っておる、頼んでおる時と言うだけではなくてです。それが日常生活の細々しい、一コマ一コマの中にもね、その思いが込められてあると言う事です。きついけれどもこの事が、その願いの成就の事の為ならばと思うておると言う事です。茶碗一つ洗わせて頂くにでもです、疎かな事は出来ないと。実意の限りを尽くさせて頂かなん。
これがそのことの願いが成就することの為ならばと、思いをそこに置いておるという事。そういう思いの人達がです。合楽全体の一つのその、まぁ火の玉の様な熱烈な勢信心になった時に、皆さんがご承知の通りの、言わば奇跡というより他はないほどしのおかげになって現われてきた。99%駄目だと言われたほどしの、言わば大病が全快のおかげになって現れて来た。
だからね一二の三と、かけ声をしておるだけではいけん。言うておるだけでは駄目。この真のということ。一心の真を捧げての願いでなからなきゃいけない。ほんなら、そのことがです、そのことの願いが成就するということではなくて、一心の真を捧げて願う者の祈りが、そのまま自分の信心になり、自分の力になっておるという事なんです。というところをです、私はここでは教えて頂いておるとこう思うです。
人に誘われてのしょうことなしの信心では、それは付け焼刃のような信心じゃ。付け焼刃ではとれやすい。どうぞその身から打ち込んでと、そこに一つの難儀を見る。はあ気の毒な事じゃ、可愛そうな事じゃと思う信心心が動く。動いたらねそのことの為に、誰が知ってもらう事要らんじゃないか。その事の為に私は真を捧げなければならない。その事の為に一心の真を捧げて、そして願わなければならない。
私はね例えばそれが人の事の為にでもです、一心の真を捧げて祈れれる程しの心を、私は親切な心だと思うですね。親切とは親が子を思う切ない心なのである。そういう心を結集する。どうにも出来そうにもないような難儀な問題がです、その事によって成就の暁を見る事が出来る。成程そこにおかげを受けたと言う事の事実だけではない。その事を祈り願わせ頂いた者の信心であり、力であり。
いわゆる神様をいよいよ信ずることのできれる確信が、そこから生まれてくる。自分の事を自分で祈るのは、誰だって祈れるんだから。それを私はね目の当たりに、そういう一つの難儀を見た時にです。はぁ気の毒なことじゃと、可愛そうな事じゃと。その可愛いと思う心がね、祈りになって来なきゃいけん。その可愛いと思う心がね、一心の真を捧げることに躊躇してはならないと言う事なんです。
そういう思いが集められて、しかもかけ声を揃えての一二の三と言う事になってくる時にです、成程びくともしなかった、動こうともしなかった大きな石でも、それを持ち上げることが出来る様なものだと教えておられるとこう思うのです。私は昨夜から今朝にかけてのことです、お夢を頂いた。それは今の現教主様、いわゆる金光様が丁度この障子よりちょっと狭い位な大きな大宝軸ですよね。
それに漢詩しの様なものが一杯、見事な字で書いてある。そしてね、金光様が合楽の教会長にね、是をまあちょっと私まあこれを書いてくれと言われるような感じなんです。それを。そしたら私もね是を手本にして、下敷きにして書けば書けん事はないだろう、書きましょうと、まあ書きましょうと言うよりも、書いてさしあげましょうと。先生何か一筆書いて下さいと言うでしょう。
その時に今書いてあげましょうという、そんな感じなんです。いわゆる金光様に書いてあげましょうと言ったような感じ。でも今晩は遅いですから丁度それが夕べの、私共が休ませて頂いたのが、十二時過ぎだったでしょうな、だから丁度そんな感じなんです。もう今晩はもう遅うございますから、明日の朝ご祈念に出る前にね、あの書かせて頂きましょうと言ってるんです。
私はそれを全部覚えておりましたけれども、その十二時でしょうね、今朝目が覚めてみると、忘れてましたけれど。その中で一番印象に残っておるのはね、「籠の鳥」と書いてある。籠の鳥籠の中の鳥。そして今朝目が覚めてですね、今朝その目が覚めてから、私ははあ是はしもうたもう三時半、お広前に出らなきゃならんのに、もう書く時間がない。しかも墨もすっておらなかったと思うておる所で目が覚めて。
それでやっぱそれが実感的にお夢に頂いたものですから、目が覚めてもですね、それを思っておるわけですよ。もう今朝書かんならんと思うておる訳ですよね。ここはもう夢じゃないわけです。はぁしもたもうこら時間なのに、今から墨すったり書いたり、思いよるあら夕べの夢の続きを実際に今こうして思いよると言う様な事でした。その事を余りに生々しい事で御座いましたし、しかも金光様がご依頼になる。
私に頼んでおられる。今私がこうやって書いたが、是をあんたが是と同じにもう一つ書いて、言うならば書いてくれとこう言う、書いてお供えしてくれと言う様な風に頂いたんです。そして自分のまあ言うならば、後悔しておるです。もうほんと夕べ遅いてんなんてん言わんで、夕べのうちにどうして書いておかなかった事であろうかと。もう今晩は遅いから、明日の朝ご祈念に出る前に書かせて頂こうと思うておった。
押しやり的な気持ちがいけなかったと、自分で後悔しておる。しもた是はもう墨だけぐらいすっとかなきゃ、是だけの字ば書かなきゃならんのに、相当墨が要るのにとも思うてる。私はその墨をすると言う事なんですよ。是は苦労すると言う事黒うとは、濃ゆくすると言う事。と言う事はね是は修行ですね、一つの事を願う一つの事をさせて頂くためには、絶対信心に修行は付き物なのですから。
字を書くためには、その墨汁が必要でありますようにね。絶対それは必要なのです。ですから大きな字を書きたいと思うなら、沢山の修行をすり貯めとかにゃいけん。大きな字を書こうと思うなら、小さいしんかくの細か筆ではいけん。矢張り大きな筆を用意しなければならない。私自身がまず太くならなきゃいけん。大きゅうならないけん。しかも苦労を惜しんではならない。
夕べの月次祭の前お祭り前の、佐田さんの体験発表を聞かせて頂いて、愈々それを思う。又と出来ぬ修行と言う事を頂いておられるね。又またしようと思うても出来ないその修行をです。それこそ水も漏らさん思いで成就していきたいと。是が一カ月が二カ月、二カ月が三カ月に伸びましても、是だけは成就していきたい。何と言っても佐田一家にはまあだ大きく大きく願われておる所のおかげを受けなければならない。
そのおかげを頂く為の力を頂く為にも、この修行を疎かにしてはならないと言う事を、現在取り組んでおられる修行の中から、そういう発表をしておられます。又と出来ぬ修行と言うておられる。ほんとに又出来る修行じゃないです。現在佐田さん一家が取り組んでおられる修行は。ですからはあこげな難儀な事は、早く向こうに押しやろうというのじゃなくて、それをね成程そう思うた時代もあった。
まぁ一週間か十日、又は一月位でと心に決めておった事がです。思うどころか反対の事になっていく時に、初めてこれはとても日にちでも切っている事じゃない。是がいつまで続いても、本気で一つこの又と出来ぬ、この修行に取り組ませて頂こうと言う事になった。信心が有り難いとか、と申しますけれども信心というものは、本当に尊いものだと言う所までね、高めておられるなと思いました。
信心とは尊いもんだなぁと。普通から言や、別に赤の他人と同じ様な人の事のために、一心の真を一家中で捧げておる。しかもそういう難儀な中にです、しかも又と出来ぬ、これは修行だと頂いておられると言う事。場合には一家中の者が、その事に関わらなきゃならないと言う様な状態の中をです。又と出来ぬ修業としてそれを尊いものに、言わば消化して来ておられる。成程とても太くならなきゃ出来られる事じゃあない。
大きな筆がもう準備ができていきよる。どういう大きな字でも書けれるだけの、言わば墨汁がすり貯められていきよるという感じが致します。それに引き換え私が頂いたお夢の場合などはね、本当にあいすまん事である。書いてくれという人には、ちょいと書きましょうかと書きゃあいいのに、もう今晩は遅いから明日の朝にしようと。言うなら明日の朝、言うなら一時間でも早く起きて書こうという気にはならずにです。
目が覚めた時には、もう出仕の時間である。間に合わない。墨すらすり貯めていなかった。はぁしもうたと思うておるような、まあ是が私の信心の実際の姿であろうと自分で思うです。まあ今朝から猛反省させて頂いておるわけであります。しかもそこの中に、私の心の中に残っておる籠の鳥と言う事。と言う事がです。是はまぁ愈々ここ畳半畳に座り抜かせて頂いての、本気での御用付け焼刃じゃない。
商売のために座るのじゃない。本気で、一心の真を捧げての御用奉仕が出来なければならないという意味だというふうに、私は思わせて頂いておる。もちろんそれがご造営のことに繋がることも、さることながら。まず私自身がそういう姿勢をもういっぺん頂きなおさなければいけないなというふうに、まあ思わせて頂いたわけであります。そこでほんなら、私がです現在ご本部でご造営があっております。
ご造営の事の為に、一つ本気で籠の鳥にならせて頂くと言う事。私は是はこの頃からも申しましたようにね。愈々自分を空しゅうするというかね、昨日の佐田さんのお話の中にもありましたね。元旦祭に一家中でお参りをさせて頂いて、己を空しゅうするというご理解を頂かせて貰うて、帰りがけに、ご主人と二人でそれを話された。お母さんと三人で話されて行きながらです。
愈々この佐田一家が、愈々佐田一家を空しゅうしてでも、今年の信心は成就しなければなりませんなぁと言うて、お話をして行きよったら、自分の前を走っておる自動車がね、県違いではあるけれども、自分の乗っておる車のナンバーと同じじゃった。あちらの自動車のナンバーがですね、7154ですか。それをもじっておりますとね、ない御用ということなんです。ない71はないですね。54。
だからもうほんとに佐田一家を空しゅうしてでも、今年こそは御用に打ち込ませて頂かなきゃならん。いや神様に喜んで頂く、親先生に喜んで頂く御用にならせて頂かにゃあいけませんなぁと言うて、一家中で車の中で話して行きよったら、その7154の車が前を走ってるち言うて。しかもそれが前になり、後ろになり、久留米に行くまで、着くまでその車と一緒だった。いかに天地がね、私共一家に、それを求めておられるかということを実感したと言うておられます。
皆さん、ほんとにね、天地が動きなさる時には、天地がそれを願われる時には、求められる時には、それは不思議な不思議な、そういうような働きはありますよ。ありゃ偶然たいとは、言われんでしょうが。今話しておる、自分を空しゅうしての、御用ということがです、自分の車と同じ車が前を走っている。そういう実感を強うしておられるところに、今度の言わば、御用でございますから、それは尚更、一段と感じられなさったわけでございましょうね。
先日も、お母さんが、その本人の、今預かっておられる、あの病人さんの、余りにも、余りにも、そのご迷惑が大きすぎるから、もう家で引き取りましょうち言うて、ここでお届けがありました。それで、私が、ご迷惑のかけついで、一つ、まぁかけついでにかけなさいと。そして、あなた達の信心も、それこそ、人に誘われてから、しょうことなしに参ってくるじゃなくて、打ち込んだ、その身から打ち込んだ信心させて貰いなさらにゃいけませんと言うて、お話をしたことでございますけれどね。
これが、ほんなら、私が、もう少し、これは大きな意味合いにおいてですね、いわゆる金光様からご依頼を受けておる。そのご依頼を受けておることに、私共が、それに、応えて立たせて頂くという姿勢がなっていなかったなぁということです。そこで、私が、ここに、心を入れ替えて、ほんならご本部ご造営ならご造営ということに、改めて焦点を置いて、一心の真を捧げてのご造営成就のことを祈り願わせて頂くという事になれば、それこそ、千歳一隅、またとこういうようなことがあろうとは思われない。
そういう大きな御用のためにです。これは合楽なりのものではありましても、またと出来ぬ修業に取り組ませて頂くという事をです。改めて分からなければいけない。そして、いよいよ籠の鳥の自覚。これは、いろいろ、理屈をつけますとおかしいですけれども、ただそこのところだけを頂いてもらうとね。この頃からも、私は、その意味のことを申しますように。例えば、籠の鳥がです、籠の鳥に飼われておるということはね、それこそ、それの飼い主は、もう蝶よ花よで育てますよね。
それかと思うと、自分は、それこそ天地の中を、我が物顔に、飛び回っておるのは、やはり自分で、餌も探さなければなりません。私共は、そういう意味合いにおいて、籠の鳥のおかげを頂いておるけれども。座っておるのは、ここ畳半畳の中だけれども、場合には、自分の心の中に世界が治まっておるかと思われるほどしの祈りが出来る事がある。世界中の隅々のことまで祈らせて頂くことが出来ることがある。
まさしく、私の心の中に、世界がはまってござるような時がある。そういうおかげを頂いておる時、世界中の隅々から、言うならば、必要な物が必要に応じて集まってくる。言うならば、籠の鳥の中に飼われておるその鳥がね、飼い主が、それこそ大事に大事にしてくれると同じ。ただそこを大事にされておるということなんです。人間の幸せというのは、神様に大事にされなければ人間の幸せはあり得ません。天地の守護を受けるという意味なんです。
大事に大事に天地の親神様が、そうして氏子一人のためにご守護くださってあるのだろうかと思われるほどしのご守護を受けて、いわゆるご寵愛を受けるということ、神様の。そこに人間の幸せがあるのでございますから。今朝からの、そのお夢からね、そのようなことを感じさせて頂いて、今日はこの24節を頂いた。ただ、皆でお願いしよりますというだけでは、それが場合によってはね、それにこう、しがみついておるだけのごたる格好。せからしい、のかんのと言うごたる事になるかもしれん。
また、間にそれに、ぶらさがっとるとがおるかもしれません。それじゃあ返って邪魔になるでしょう。声掛けだけではいけないということ。ほんとに私なりの力がです、一心の真になって現わされて、そしてそれが願われる時に、大勢でかけ声を一度に揃えれば、持ち上がらぬ石でも、持ち上がるようなものだと。バラバラでは持ち上がらんぞというふうに教えておられることだと思うのです。
まず自分の信心が、果たして、付け焼刃ではなかろうかと反省しみなければいけん。その身から打ち込んでの、言わば朝参りであるか。しかも真の信心をと言うておられます。果たして、いわゆる、先ほど幹三郎の例を持って申しました様にです、あの時の様にです。お互いが一心の真を捧げの願い。しかも一心の真を捧げてご神前に向かうだけではなくて、日常生活の、そのようなことまでが。
ほんに私は、今朝から、それをも思っていました。神様、今日、私に求められた、こういうものを書けと言うて大きく書いてくださったものじゃったがです。せめて、こういう大きなものが書けないに致しましてもです。私が、金光様の書体を真似て書かせて頂いておる、このくらいなことだから、良かろうと思うて、疎かにするところに過ちが起こるという、あの意味のお歌のようにです。
その小さい、あのくらいな字でも良いから書かせて頂きたいなと、私は、今朝から思わせて頂いた。それは、ほんとに、しんかくで書くほどしに、ささやかなものかもしれません。けれどもそこに一心の真を、言わば、捧げての願いにならにゃ、信心にならなければならないというふうにも思わせて頂いた。私共の周囲には、ほんとに祈らせて頂かなければおられないほどしの。
難儀がいっぱいある筈です。又は勢信心によらなければ出来ることではない。ほんなら、ご本部のご造営などもです。是は又と出来ぬ修行。それこそ千歳一隅の時期に、私共は、おかげを受けておるということを、一つ思うてみて、改めてです。このことにも本気で一心の真を捧げて取り組ませて頂こうと、思いを新たにしておるような訳であります。
どうぞ。